武道とスポーツ

先日、あるテレビ番組で、「武道はスポーツですから…」と発言された方がいらっしゃいました。

ギョッとしました。

私はそのテレビ番組をじっくりと観ていたわけではなく、作業をしながら軽く耳を傾けていた程度だったのですが、その発言が耳に入った刹那、テレビに目を向けました。発言者の肩書きはスポーツ評論家とのことでした。開いた口が塞がりませんでした。

武道とスポーツは全く異なる概念です。

以下はあくまで私の解釈で話を進めさせて頂きます。至らない点はあるかも知れませんが、もし武道とスポーツの違いについて全く理解ができないという方がいらっしゃいましたら、少しでも伝わる所があれば幸いです。

まず、スポーツの起源は余暇に行う遊戯です。定められたルールに従い、平等な条件で、技術や体力、知力の限りを尽くして試合における勝敗を競います。よって、試合での勝利がスポーツの目標かも知れません。

一方、武道の起源は血生臭い戦場です。そこに定められたルールなどありません。不平等は当たり前です。試合を行う武道はありますが、武道を志す方は試合での勝利を目標にはしていないと認識しています。

本来、本気で戦うとなれば、「試合」ではなく「死合」になるはずです。武道において「試合」とは、自らの修行の成果を試すため、便宜上、「禁じ手」(反則)を定めて、技量を測り合う場です。まさに「試し合う」だけですので、試合は武道本来の姿とは異なるわけです。

合気道では、一部の流派を除き、試合は行われません。稽古では、武器を持った相手を捌いたり、多人数を相手にしたりすることがあります。一対一の競技スポーツではありませんので、不平等な状況でも身を処す術を磨くわけです。

武道の起こりは戦場ですが、江戸時代、大坂夏の陣終結し、いわゆる「元和偃武」(げんなえんぶ)となり、武士の意識は大きく変わりました。それまでは人をより効率的に殺戮する技術が求められていました。しかし、泰平の世となり、武士は目の前の相手を殺すのではなく、目の前の争いを収める様に意識が変わっていきました。よって、古武術を除き、現代の武道では効率的に人を殺すための技術は磨いていないかと思います。

それでは人を殺すための技術は全く失われたかと言えば、そうとも言えません。邪な心を持つ者を相手にし、捌くためには、相手の出方を心得る必要があります。武道で相手の命を断つ技術を学ぶ目的は、実際に自分自身が使うためではなく、その技術を使われた場合に応じるため、そう私は解釈しています。

武道の「武」の漢字は「戈」(ほこ:武器のこと)を「止」めると書く、とよく言われます。中国の古典「春秋左氏伝」には「止戈為武」(しかいぶ)という四文字熟語があります。

武道とは、武器を止める道、すなわち争いを無くす方策を追求すること、と言えるかと思います。よって、武道の目標は、試合での勝利ではなく、大きく言えば世界平和への寄与ではないでしょうか。

現代の平和が永く続くために、果たすべき武道の役割は小さくない、私はそう信じています。